いつもの日々

わたかぜの忘備録。映画、アニメ、小説などの感想をメインに

映画「グラン・トリノ」 感想 人生の終わらせ方

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2008年に公開。クリント・イーストウッド監督の名作。主人公もイーストウッド自身が演じています。

 

とにかくウォルトがかっこよかった!評判が良かっただけに期待外れに終わると嫌だなあと思っていたのですが、十分良かったです。長い人生を歩んできた老人ならでは生き様を感じられました。

 

・あらすじ

妻に先立たれた昔堅気の頑固親父ウォルト・コワルスキーと隣家のモン族の気弱な少年タオの話。隣家のタオとその姉スーがギャングに絡まれていたところを助けたことがきっかけで交流するようになる。ウォルトはタオを一人前の男に育て上げるべくいろいろと手助けをし、次第にタオやその家族と仲良くなっていく…

 

・ウォルト・コワルスキー

綺麗な妻に二人の子供、一軒家に庭、そして愛車グラントリノ。まさに順風満帆な人生。朝鮮戦争を経験し、退役した後は50年フォードで自動車工として働いた。仕事を辞めた後は妻と犬とのんびり暮らす。まさに理想の人生。

 

しかし子供が大人になって一人立ちして、妻にも先立たれた彼には何が残ったでしょう?子供たちとは接し方がわからずあまり仲良くはなれなかった。もちろん家や庭、愛車は”物”として存在していますが、それだけでは彼の生きがいとはなりえませんでした。

バーで27歳童貞の牧師と話をしていた時、牧師からあなたにとって生と死は何か聞かれます。ウォルトは死について、朝鮮戦争を3年経験して17人の子供を銃剣で刺したりシャベルで殴って殺したことを話します。逆に生については、家庭を持ったとしか言いません。ぱっと出てくる生きがいがそれしかなかったからこそこの答えなのです。愛車グラン・トリノは大切な物ではあるが、生きがいにまではならなかったのでしょう。戦争で人を殺した罪の意識がそれだけ大きかったということでもあります。殺した人数を覚えている事がその証拠。人はどうでもいいことはすぐに忘れてしまうものです。

 

・罪の意識

タオとその家族がギャングに絡まれているところを助けた後日、なぜ警察を呼ばなかったのかと牧師が訪ねてきます。ウォルトは咄嗟の判断が重要だと、また”朝鮮戦争での経験”を例に答えました。すると牧師はその罪からは神に懺悔することで救われる、と懺悔を勧めてきます。ここで彼は”命令されてではなく、自分の意思でやった”からと懺悔を断るのです。

命令されて仕方なくと罪から逃れるのではなく、自分の意志で殺したんだと真っ向からその罪と戦う姿勢。めちゃくちゃかっこいい。

 

虐殺器官のクラヴィスを思い出しました。クラヴィスも仕事としてたくさんの子供を殺していましたが、その罪とその罪から逃れようとした罪の意識を感じていました。その罪の意識に苛まれるという地獄の中で、彼は答えや赦しを求めていました。その結果彼はアメリカを混沌に陥れます。罪の重さに耐えきれなかったとはいえ自殺よりたちの悪い幕引きです。対してウォルトはクラヴィスよりずっと精神面では強く、戦争から帰ってきてその罪に悩みながらも家庭を持ち順調に人生を送りました。50年以上もその地獄と戦い続けたなんて立派すぎる…

 

この姿勢は終盤で教会に懺悔した時にも表れます。彼は妻以外の女性とのキス、脱税、息子との不仲を懺悔しますが、戦争でのことは懺悔しません。ギャングどもに対する報復も銃ではなくライターで行います。ライターには第1騎兵師団のロゴが入っており、まさに彼の戦争時代の象徴と言えるでしょう。そのライターとともに没する。人殺しを悔いており、その罪の意識を持ちながら人生を終えたことを伝えるとても素晴らしい幕引きでした。

人の死をこれほどかっこよく思えたのはこの映画が初めてです。それは彼が罪の意識から逃げるのではなく、友達タオの為に、そして誰も血を流さない解決方法としてこれを選んだからです。何十年もこの罪の意識と戦い続けたウォルトにとってこの選択は逃げと言えるでしょうか?もうそれだけ戦ったなら私は十分だと思います。

自己犠牲の究極として死を持ち出すのはエンタメの常套手段ですが、今作はそれを差し引いてもよかった。最高にかっこいい人生の終わらせ方。

 

彼から生き様を学んだタオ。タオこそが愛車グラントリノを受け継ぐに相応しい人物なのは間違いありません。

小説「虐殺器官」感想 人間の持つ"良心"はどこから来たのか

こんにちは。

前の記事に引き続き伊藤計劃さんの小説です。

”ことば”や”死”が一番のテーマだと思いますが、ハーモニーと同じように人の”意識”もテーマにしており、そのテーマに対して独自の解釈で展開されるストーリーはとても面白かったです。

今作はそのようなテーマの中でも道徳観や倫理観といった人の”良心”についてよく語られていました。

 

良心、道徳観、倫理観と聞いたときに私は小学校の時の道徳の授業を思い出しました。命の大切さ、人を思いやる大切さなどを戦争や障害者に関するビデオを見たりしてた気がします。まあ今となってはほとんど覚えておらず、あまり役に立っているようには思えないのですが、こういう事は社会的に”善”とされるということは学べた気がします。

 

ただ、何で善とされるか、善と思うかなんてのは考えもしませんでした。

そこに本作は切り込んでいったのが私にとってはとても新鮮で魅力的でした。

 

・器官

ことばも、ぼくという存在も、生存と適応から生まれた『器官』にすぎない。

本作の重要な考え方の一つです。人間のすべてのものが生存と適応の産物に過ぎず、それは言葉も例外でなく、肝臓や腎臓といった器官と同じであるという考え方です。

そのため思考は言葉より上位に位置すると考えられています。

 

・良心

良心がどのように生まれたか、同じく進化論の考え方を用いてクラヴィスとルツィアの会話中でゲーム理論のシミュレーションを例に説明されています。初期は個体は自分のためにしか動かないが、世代を重ねると目先の利益よりは集団を形成して行動した方がずっと安定性を得られる。そのために利他行為(良心のある行為)をとる個体が出てくると。

良心とは、要するに人間の脳にあるさまざまな価値判断のバランスのことだ。各モジュールが出してくる欲求を調整して、将来にわたるリスクを勘定し、その結果としての最善行動として良心が生まれる。膨大な数の価値判断が衝突し、ぎりぎりに均衡を保つ場所に、『良心と呼ばれる状態』は在るのさ。 ージョン・ポールー

価値判断のぶつかり合い、欲求の調整の結果が良心。これはハーモニーでの意識についての考え方と同じで、良心は”ある意識の状態の一つである”とジョン・ポールは述べています。

 

虐殺器官

言語学者のジョン・ポールは人類の過去の虐殺の資料からある法則性、文法を見つけました。それはどんな国、どんな政治状況、どんな言語であれ共通してあるという、深層の文法です。人間の脳の中にはあらかじめ備わった手持ちの要素を組み合わせて文を生成する機能、すなはち言語を生み出す器官があり、ここから生まれる文法の中に虐殺を予兆させる文法があることを彼は発見したのです。これを発見したジョン・ポールは逆にその文法を使って脳の欲求モジュールを調整して、”良心”のバランス状態を崩壊させ社会を混沌に陥れたのです…

”良心”のディティールは国や文化、究極的には人によって違うけどそれはどうするの?とかこの深層の文法が具体的になんなのかが示されておらず突っ込み始めたらきりはないのですがそれはしょうがないでしょう。

 

・ラスト

虐殺器官を発見したジョン・ポールがその深層文法に触れ、妻子の死を経験し、自分の愛するアメリカをテロから守るために虐殺を行うようになった。クラヴィスは母とルツィアの死による孤独、仕事で殺してきた人々への贖罪、ジョン・ポールからのメモによりアメリカの虐殺に至った。

前者は愛する世界を守るため虐殺を起こしましたが、後者はどうでしょう?クラヴィスは自分の罪を背負うことにしたと言っているが、ここで言う罪は今まで少年少女など数多くの命を奪ってきた罪と、これからアメリカを混沌に陥れる罪どちらも指している。「他国の人を殺した罰として自国の人を殺します」というオチ。もう完全にめちゃくちゃである。虐殺器官が”正しく”機能した例がジョン・ポールで、間違って自滅の道を歩んでしまったのがクラヴィス

もうこの世界の人類はサーベルタイガーのように滅んでしまわないよう祈るしかありません

小説「ハーモニー <harmony/>」感想 ”完璧な”人間の先に待っているものは

伊藤計劃さんのSF小説です。

約一年前に一度読みました。その時期に映画も公開されましたが、小説だけでかなり満足したのと公開映画館の少なさ、あまりよい評判を聞かなかったのもあって見に行かず今に至ります。

伊藤計劃さんの別作品「虐殺器官」の映画も同時期に公開予定でしたが、アニメ制作会社マングローブの倒産により公開延期になりました。この映画は来年の2月3日に公開される予定です。

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・世界観

<大災禍>と悲劇が起きた後の世界。核戦争により未知のウイルスが生まれ世界に病気が蔓延しました。世界は病気を駆逐するため資本主義社会から命と健康を第一とする医療福祉社会に変化します。その結果病気や戦争がほとんどない平和な世界が誕生。ユートピア。現在の人々はWatchMeと呼ばれる全身を監視されるシステムを体内に埋め込み、メディケアという個人用医療薬生成システムを所有している。

 

「健康」、「平和」と聞くと一見いいように思えるのですが、その行き過ぎた思想は酒やたばこの禁止に始まり、食事メニューの制限、倫理セッションや健康カンファレンスへの参加(ほとんど義務)、殺傷表現のある小説や映画の閲覧禁止などなどとても息苦しい社会になってしまっています。

そんな優しさで首を絞めつけらるような社会に疑問を持つミァハ、トアンのお話

 

・欲求と意志と意識

この作品では以下のように考えられています。

意識の関心を惹き、強く印象付ける心理作用のことを「報酬」と言う。快楽や精神的充足、痛みなどのこと。この「報酬」によって動機づけされる様々な「欲求」がせめぎ合って最終的に下される決断を「意志」と呼んでいる。会議を思い浮かべると分かりやすい。会議の場で欲求のモジュールがそれぞれ主張しあい、調整して、結論を出す。その過程と結果を纏めて「意志」と言う。

 

人間の価値判断には一種の非合理性がありこれを何とかして制御してやれば合理的な「意志」を持つ完璧な、理想的な人間ができると科学者たちは考えた。

その結果何が起こったのか?確かに合理的な「意志」を持つ事が出来たが、同時にわたしはわたしであると認識している状態、すなはち「意識」が失われた。

 

この哲学的でSF的な展開がこの作品の魅力です。内なる自然までもを支配下に置こうとした人間の末路。

「意識はないけど意志はある。しかしその意志は人工的に制御されたものである。」

これでは人間と言えるのでしょうか?肉体こそが人間の本質か、それとも精神こそが人間の本質か。

ミァハはもちろんyes派。トァンは理屈では正しいと思っているけれど完全に納得はしていなかったように思います。完全に納得しているのなら復讐するかどうかは調和された後の世界の自分に任せてあげるはずです。 

「あなたの望んだ世界は実現してあげる。だけどそれをあなたには与えない」

同志であるミァハへの憧れ、そのミァハの壮絶な過去、調和した世界、父とキアンの死。様々な葛藤の結果トァンが選択した意志はこうでした。やっぱり人間ってこれなんだよ!この壮絶な葛藤こそが、この高度な意識こそが人間を人間足らしめているものだと自分はどうしても思ってしまいます。みなさんはどうでしょうか?

 

アニメ「selector infected WIXOSS」 & 「selector spread WIXOSS」 感想 選択者の理

2014年4~6月、10~12月に放送された分割2クールのアニメです。

現在放送中のLostorage incited WIXOSSの前作にあたります。

Lostorageの方を見ているうちに懐かしくなって見返したのでその感想をと。

当時はアニメのOPが良かったからという理由だけで見てた気がします。

今見返しても2クール目のOPはすごいよかった。映像の流れが曲とシンクロしてて見ていて気持ちいいOPとなっています。

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・小湊るう子

幼い頃、彼女は大変そうな母親のことを思いやって甘えるということをあまりせず、その結果母親から「何を考えているのかわからない」と拒絶されてしまう。あまりにひどい母親です。その結果人間関係に臆病になってしまい友達もあまり作ろうとしなかった。祖母と兄とだけの世界だけでよいと考えるようになり、何かを強く求めるということもしなくなっていった。祖母はそんなるう子を心配に思っており、兄からWIXOSSで友達を作るよう勧められる。そこでるう子がタマと出会い、友達もできて、セレクターバトルに楽しみや生きている実感を見出していく。

セレクターバトルの敗者に待っているものは絶望しかない、自分には願いもない、けどバトル自体は楽しいという葛藤の中でるう子はバトルにハマッて行きました。

 

バトルたのしーだけで終わればよかったのですが、ここで衝撃の事実が判明します。バトルの勝者の願いをかなえるのはその人自身ではなく、ルリグだったのです。勝者とルリグは入れ替わり、勝者はルリグとなって新たな少女のもとでセレクターバトルをする。

この事実を知ったるう子はタマや遊月をはじめとして全てのルリグとなってしまった少女を救おうと考えます。まどマギのまどかのような感じです。

 

自分の世界に閉じこもっていた少女が友達のために行動する。

絶望しかない世界の中で希望を抱いて前に向かって進んでいく少女、すごくいい。

 

ただこの願いをかなえる為にはるう子は勝者にならなくてはいけない。そうなったらるう子はルリグになってしまう。るう子だけルリグのままになってしまうのではないか。

るう子はそうなってもいいと考えましたが、タマは納得しませんでした。

”少女とルリグがどちらも受け入れないといけない”というルール上、るう子の願いは叶わず、代わりに条件を満たしていたイオナ達の願いが叶ってしまいます。

ここで前半終了で後半へ。

後半はセレクターバトルの正体(タマやイオナ、繭)を暴いていくのがメインで、前半のようなるう子自身の話はありませんでした。代わりにタマがるう子の選択を受け入れていく過程がしっかり描かれていました。

 

・繭とタマとユキ

セレクターバトルの正体は引きこもり少女繭の自分勝手な憎しみによって生まれたバトルといったもので、中二病的だけどかっこよくもないという。環境的に仕方ない部分もあったといえ感情移入はあまりできませんでした。

繭は死んでしまっているので、繭の成長はタマとユキを通じて描かれました。

"選択者の理を受け入れる"とは選択者-selector-の選択の結果がどんなものであれ受け入れる覚悟を持つ事を指しています。だからこそ覚悟を持てたタマは最終話で「扉がないから出られない。扉がないから?違う、扉はあるんだ。それは、タマが選ぶこと!」と自分で切り開いていき、るう子の願いにも応じることができました。

 

・蒼井晶

晶のイオナ(ウリス)に対するイカレ具合は最高でした。赤崎千夏さん岡田麿里さんありがとう。

彼女は承認欲求の塊なんだと思います。愛に飢えている。

読モをやっているのもおそらくそのためだし、だからこそ同じ読モをやっていて自分と同じかそれ以上に人気のあるイオナを邪魔に思って破滅を望んだ。結果勝負に負け、顔に傷を負った。

心だけでなく外見まで醜くなってしまった晶はそんな自分に自信を無くしました。そんな晶のもとをウリスは訪れあなたはきれいだと言う。気にかけてくれたウリスに晶は心を開いて懐いていく。実際ウリスはるう子と戦うための駒にしか見ていなかった事が発覚すると、晶はまた壊れていく。。。

家がぼろアパートだったり、母親と仲が悪そうだったりと家庭環境がよくなさそうなのもまた可哀想。

spread 10話のセリフは今でも覚えてます。こんなに愛したいキャラもなかなかいない。

私はルリグになる…そしてまた人間に戻ったらアンタに真っ先に傷を付ける…願いを叶えて傷を治す…これから何度も何度も…アンタの体を…蒼井晶の愛が…通過していくんだよ!!

このシーンで晶は出番が最後で非常に残念でした。ちゃんと愛してくれる人と出会って幸せになってくれてると嬉しいなあ。

映画「永い言い訳」感想 人生とは他者である

永い言い訳を見てきました。

西川監督の作品は初めて見ましたが面白かったです。

海町diaryの是枝監督のお弟子さんだと知ってあの作風に納得。

 

あらすじ(公式HP)

津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。保育園に通う灯(あかり)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平。子どもを持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが・・・

 

主人公の幸夫がとにかくクソでしたね。

冒頭の妻に髪を切ってもらうシーンではネチネチ文句を言い嫌味ったらしい。

見た瞬間に子供みたいな大人だなと思いました。

社会人なのに電話にでなかったり、妻の葬式の後はネットで自分の名前を検索してどう思われてるか確かめる、とにかく自意識過剰で自分の事しか考えていないです。

私は幸夫に共感できるところも結構あってクソだけど愛着を持てました。

 

妻が亡くなっても涙は全く流す様子はないが、悲しむ姿を演じる社会人としての仮面はしっかり被っていてこういう所は大人だなあと。車に乗り込んだ後バックミラーで前髪を気にするシーンでは担当編集引いてましたからね。

映画を見ていて最初は幸夫は妻を愛していないのかと思ったけど、大宮家と海に遊びに行くシーン、妻の携帯を見て怒るシーンや誕生日会をぶち壊すシーンを見て、やっぱり幸夫の中で妻は大きな存在なんだなと思えました。ただ自分以外の人に責任を持つということが出来ない人なんだと。だから夫として妻だけをちゃんと愛してやれず不倫をするし、子供を持つことにもリスクばかり考え反対する。

 

人生とは自分1人だけのものではない。誰を愛し誰と共に生きてきたかで決まる。他者との関わりの中で歩んでいくものである。

幸夫はその事に気付いたからからこそ「人生とは他者である。」と書いたのでしょう。

 

映画「アメリカン・ドリーマー 理想の代償」

  1981年のニューヨークが舞台の映画。当時のアメリカは不況の真っ只中で、NYはとても治安が悪かったそうです。原題の"A Most Violent Year"もそれを表してますね。地下鉄の落書きとかの町の描写で荒れっぷりがわかります。

公式サイト

 1981年、NY。犯罪と暴力が氾濫するこの年に生き馬の目を抜くオイル業界で、クリーンなビジネスを信条にオイルカンパニーを築きあげた移民のアベルとその妻アナ。事業拡大のための土地購入の頭金として全財産を投入した直後、彼の成功を阻止しようとする何者かの手によって、積荷のオイルの強奪、脱税の嫌疑、家族へ脅威・・・次々にトラブルがのしかかる。悪い噂は一気に広まり、ついに銀行からの融資を断られ、信頼していた妻との間にも亀裂が。
刻一刻と破産が迫るなか、孤立無援のアベルはトラブル解決のために奔走する。期限はわずか30日-。

  物語は主人公のアベルとその妻を中心に進んでいきます。主人公のアベルは誠実さ、クリーンを信条にしている理想主義的人間として描かれており、自社のトラック運転手が何度も襲われているにもかかわらず頑なに銃の携帯を許可しません。対して彼の妻のアナはギャングの娘で、必要ならば暴力的手段は厭わない現実主義的な人間として描かれています。この二人の正反対さが面白かったです。中でも、車で轢いてしまった鹿にいきなり銃をぶっ放したシーンはびっくりしました。

 トラック運転手のジュリアンもアベルと対照的に描かれていました。アベルが成功者で、ジュリアンは成功できなかった人です。そのジュリアンは最後アベル、アナ、アンドリューの前で家族を頼んだと言って拳銃で自殺します。その時打った球がオイルタンクを貫通し、オイルが漏れ出てきたのをアベルがハンカチで止めるシーンが印象的でした。これが当時のアメリカの現実だ!ひどいだろ!しっかり見ろ!と言われてる感じがして。ジュリアン=アメリカの一般人、アベル達=アメリカの政治家、オイルタンクもといオイル会社=アメリカと考えると辻褄が合うのかな

映画 「スポットライト 世紀のスクープ」 感想 カトリック教会の隠された真実

カトリック教会の神父の子供たちへの性的虐待の事件を報じた新聞記者たちの話。

新聞記者が事件の当事者たちを訪ねインタビューをする、ひたすらその繰り返しです。事件の全貌を明らかにする過程を地味ですが丁寧に描いていました。

"神父の全体のうち6%が性的虐待をしていると考えられる。ボストンの神父は1500人ほどだから90人は性的虐待をしていることになる"
私はこの事件を知らなかったのでこのシーンには大変驚きました。
現実ではどうだったかというと、アメリカのCNNによるとアメリカ全体で4%もいたそうです。その数4450人。虐待件数は1万件を超えるとのこと。
小児性愛者が神父になるのか神父になったから小児性愛者になったのかは分かりませんがいくら何でも多すぎで怖い。ただの小児性愛者じゃなくて性的虐待をする小児性愛者だからもっとやばい。

 

映画の中で新聞記者達もその事実の酷さに衝撃を受けています。
元タクシー運転手の熱血記者レゼンデスが同僚のファイファーの家に訪れたシーンで、自分の中で何かが壊れた気がしたと言っており、ファイファーももうミサに行けなくなったと言っていました。

私は神様と言うのをあまり信じてはいないのでこの事実を知ったカトリック教徒の衝撃はあまりわかりません。
強いて挙げるなら子供の頃の父が近かったです。山に虫とりに行ったり海に魚釣りやダイビングをしに行ったり、父は色んな所に連れて行ってくれて、野球や塾など習い事は何でもやらせてくれました。優しいだけではなく、駄々をこねたり言うことを聞かなかった場合は厳しく叱られ、逆らうことは出来なかったです。父の言うことは全て正しいと思っていました。自分にとって父は絶対的な存在でした。今はそうではなくなりましたがそれでも尊敬する人物です。
そんな父が実はひどい大人だったらと思うとトラウマになっていたと思います。人生がおかしくなっていたかもしれません。

子供が自分が神だと信じる存在に裏切られる。その絶望感や恐怖は相当なものでしょう。そのあまりの苦しみに自殺してしまう人がいるのも納得です。
本当にこの事件が明らかになってよかった…